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2014'03.28 (Fri)

春なのに、、、

ここ数日の陽気で川原や庭の雪も完全に解けてなくなった。
春の心地よさを思いっきり感じる。大館も完全に春。
寒くて暗らくて厳しい冬も終わり、春は誰もが前向きになれる。
だといいんですが、、、
ここ数日、体はだるく気持ちも何となく後ろ向き気味。
そういえば昔、春なのに、ためい~き、またひとつ~
なんて歌があったなぁ。今の僕も何かそんな状態かも。ふ~っ
しかし僕とは比較にならないほど思い悩む人が今から約2500年前にいた。
お釈迦様です。

お釈迦様は生後間もなく母親を亡くし、小さい頃から感受性が豊かで、繊細な心を持ち合わせた少年だった。
成人したある年の春、、、
畑を起こすと土の中でぬくぬくとしていた虫たちが掘り起こされた。その虫は哀れにも、飛んできた小鳥にパクリと食べられてしまった。腹を満たしたその小鳥は哀れにも、上から飛んできた大きな鳥の餌食になってしまったし、その大きな鳥も、哀れ、人の矢に射られ地に落ちてしまった。
束の間の喜びの背後には悲惨な運命が待っている。
そんな現実を、お釈迦様は目の当たりにした。

さらにある日、外出しようと東の門から出ると、白髪で腰も曲がり杖をつきながらやっと歩くヨボヨボの老人を見かけた。別の日に今度は南の門から外出すると、ひどい病に苦しんで道端に倒れている病人を見かけた。また別の日に今度は西の門から外出すると、道で死人の葬列を見かけた。
町の外へと城門をくぐれば、そこには老い衰えた人、病に苦しむ人、そして息絶えた人に出会わざるをえない。

生を受けたものは必ずこうした運命を辿る。人間はただ苦しみのうちに生き、そして死ぬだけのことなのかと、お釈迦様は人生の意味について深く思い悩んだ。。
そんなある日、今度は北の門から外出した。そこで道を行く出家した修業者を見かけた。そして、その落ち着いて悩みや苦しみから解放されたような姿に接し、自らも出家をしようと決意した。
これは「四門出遊」という説話。
春のこの時期の本当に虫が這い出て来そうな頃、僕はいつもこの説話を思い出す。

「生まれ、老い、病になり、死ぬ」という厳然たる事実、さらに人生には、「愛別離苦(愛する者と別離すること)」、「怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会うこと)」、「求不得苦(求める物が得られないこと)」、「五蘊盛苦(五蘊(人間の肉体と精神、五感)が思うがままにならないこと)」という自分ではどうすることもできない現実(四苦八苦)がある。

んっ、「生」も苦? 喜びじゃないの?と思うかもしれないが、お釈迦様の時代はバラモン教。
人間は死をもって終りとなるのではなく、再びまたどこかで生まれ、また苦しむ。そんな生と死を永遠に繰り返す輪廻(りんね)の世界観がお釈迦様の前にあった。
「生」も自分の意志ではどうにもならない。
でも人間は、このどうにもならない現実(四苦八苦)をどうにかしようと、納得する答えを見い出そうとする。
それを、お釈迦様は四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)で説いている。

四諦とは四つの真理。
一番目、人生は苦であることを悟る。二番目、苦しみには原因がある。三番目、原因を取り除けば苦しみも消える。んで四番目、原因を取り除く方法は八正道である。
原因を取り除くことができるんだぁ。
八正道には、よっぽどありがたいことが説かれてるんだろうね、、、
八正道とは文字どおり八つの正しい道。
一、正見(正しく見る)。二、正思(正しく考える)。三、正語(正しく話す)。四、正業(正しく行動する)。五、正命(正しく生活する)。六、正精進(正しく努力する)。七、正念(正しく思いめぐらす)。八、正定(正しい心を置く)。
普通じゃん。
でもこの普通を実践するのがなかなか難しい。誰もが聖人君子じゃないんだから。

お釈迦様は苦行で悟りは開けなかった。
ヨガや断食はもちろん、命を落とすほどの過激な修行もした。でも、悟りは得られなかったのである。
そして修行をやめ里に下りてきたお釈迦様(このときはまだ一修行僧)。修行をやめたばかりなのでガリガリに痩せてフラフラ状態。そのとき村のスジャータという娘が、お釈迦様にミルクをくれた。一杯のミルクにより生命力を取り戻したお釈迦様は菩提樹の下で瞑想する。そうしたらついに悟ってしまった。
ということで、お釈迦様は苦行を否定している。
極端は避けなさい。ほどほどがベストだよと。これを中道という。
想像を絶する苦行が当たり前の頃、お釈迦様は苦行を否定し、理論により悟りを開く道を示した。それが四諦と八正道です。

戦争、災害、貧困、差別、さらに老、病、死、、、
世界は不条理な苦しみや悲しみに満ちている。
そんな片隅で、私たちは毎日の日々を過してる。
たまたま、だるくて気持ちも前向きじゃない今の自分。
こんなときは一人マイナス思考に浸かってみるのも良しかな。ほどほどに、、、

僕にとっての一杯のミルクとは何だろう。
そんなことを思いながら、四諦と八正道を考え、般若心経でも唱えてみることにしよう。

今の一瞬が尊いものになり、平凡な日常も新たな意味を持つものとして捉えることができる。

かもよ。。。


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2013'02.01 (Fri)

軽~く仏教(真言宗)1

今までは特に意識したこともなかったが、昨年、父の葬儀で喪主を務めたこともあり、仏教、そしてその奥深さや宗派、お経(般若心経)などに興味を持つようになった。
宗派にしても、仏教ほど地域(国)によって異なる宗派がある宗教はないなって思う。
そして、その違いも僕ら庶民にはわかりづらい。
別に一緒でもいいじゃん、ってのもある。

というわけで、我が家は遍照院(真言宗)の檀家。
真言宗では成田山の新勝寺や川崎大師が有名だが、地方では馴染みが薄い(らしい)。
少なくても僕が住む大館市や県北地方では。
参列いただいた方も言っていた。「お葬式は多く経験してるけど真言宗は始めてだ」と。
それほど、ここら辺では真言宗は少ないということだ。
そして、「真言宗のお葬式は違う」とも。

真言宗は密教である。
密教とは「仏さま(仏教)の秘密の教えを明らかにした教え」という意味。
その密教に対し、それ以外の仏教を顕教という。(最澄の天台宗は密教も併せ持つ)
仏教といえば、まず頂点にいるのが「お釈迦様」。これが顕教。
しかし、密教での頂点は「大日如来」。
大日如来とは宇宙の根源仏で、この世に存在するもの全てがこの大日如来と繋がっている。なので、お釈迦様もこの世で仏教の説法を説くために現れた大日如来の姿とされる。

たとえば、キリスト教では神とイエスと聖霊の三つの存在を同質とする三位一体が基本。
しかし、ほとんどの人がイエスを思いながら祈る。イエスは特別な存在なので、その意味においてはお釈迦様が中心の顕教的。
一方、神ヤハウエだけが唯一の存在というのがユダヤ教。大日如来が頂点の真言宗(密教)的だ。もし、キリスト教で密教的な教義をとるなら、たちまち異端とされてしまう。へたすりゃ迫害の対象。
でも、仏教界ではそんなことはない。ありえない。
それが仏教であり、それがまた仏教の奥深いところでもあるのかなと。。。

無常、、、
仏教では絶対的な存在はないという。だから、相手を認め合う。
これが平和の基本です。僕はそう思う。
なら、仏教をもっとどんどん世界に広めていこうぜ!

いやいや、、、
それをしないのも、また仏教です。

まだまだ奥が深いぞ。


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2012'11.08 (Thu)

ちょいと仏教について

日本の歴史において、仏教は常に人々に影響を与えてきた。
政治にも強い影響力を及ぼした時代もあった。

けど現代の日本、庶民的には仏教(お寺)との縁というか関わりが、昔よりはかなり薄くなってきている気がする。お寺に行くのは、お盆と彼岸くらい? お経なんて意味不明(あっ、すいません)。んで、般若心経って?
そんで、「○○寺の檀家だ。だけど何宗だっけ?」という人も多いのでは。特に若い人は。
そもそも宗派云々の前に、仏教って?
ということで、軽く仏教について。

仏教の開祖は誰もが知っているお釈迦様。
約2500年前、現在のネパールにあたる土地の釈迦族の王子として生まれた。本名はゴータマ・シッダールタ(サンスクリット語)。
仏教は、お釈迦様が出家し悟りを開かれ仏陀となられたことから始まる。なので、「仏陀の教え」と「仏陀になるための教え」を学び実践することである。

では、お釈迦様は、なぜ出家した?
それは、四苦八苦から逃れるため。この四苦八苦、それは人間として生きる上で避けることのできない苦とされる。しかし、ここで言われる苦とは、「苦しみ」と「思うようにならない」ことの意。
四苦とは、「生」「老」「病」「死」のこと。さらに、
「愛別離苦」(愛する者と別離すること)
「怨憎会苦」(怨み憎んでいる者に会うこと)
「求不得苦」(求める物が得られないこと)
「五蘊盛苦」(五蘊(人間の肉体と精神、五感)が思うがままにならないこと)
この四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦。
んっ、四苦四苦じゃん。まっいいや。。。
さらにヒンズー教(インド)では、人間の魂は輪廻転生を繰り返すとされる。ということは、人間は永遠にこの八苦から逃れられない? いや、そんなことはないぞ。と、お釈迦様。

では、どうすれば永遠の苦から開放される?
人間には108つの煩悩(ぼんのう)があるとされる。煩悩とは、若さ、健康、永遠の命などに執着する心、欲望や心を乱すものなどである。
煩悩の火が吹き消すこと、吹き消された状態を涅槃(ねはん)という。
涅槃への道を見つけだせば、その永遠の苦しみから逃れられること(解脱)になる。
それを悟りといい、そこに達した人を仏陀という。
お釈迦様は修行を積むことで、この悟りに達した。
そして、この悟りを開くことこそ、解脱への唯一の道だと説いた。

しかし説法は説いたものの、悟りを開くためには何をすればいいのか、その具体的な方法についてお釈迦様は語っていない。そのため、悟りはわかっても、そこへ辿りつく方法は無数に存在する。それが仏教の特徴でもあり、宗派の多さが証明している。

仏教は2500年という長い歴史の中で、さまざまな民族を介し独自の発展を遂げ、広い地域に根ざし受け継がれてきた。しかし、その元を辿れば、たった一人の人物に行き着く。
菩提樹の下で悟りの境地に達したお釈迦様だ。

生きとし生ける物すべてに慈悲の心で接し、最後は一人の人間として仏の心で安らかに80年の人生を終えたことだと思う。
それから約2500年の時を経た今の日本。全国至る場所まで仏教は根ざしている。
そう、あらためて感じた今年の秋だった。

繁雑な社会で何かと忙しい現在。

時には手を合わせ、心を落ち着かせてみるのもいいもんです。


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