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2017'02.28 (Tue)

「Happy」

この動画を見ると笑顔になりませんか?



誰もが笑顔になり、自然と身体がリズムをとる曲「Happy」。
フィリピンの子どもたちが、この「Happy」の曲に合わせて底抜けに明るい笑顔で踊る姿を見るたびに、僕はつい微笑んでしまう。

10年以上前に行ったフィリピン。
半年間の滞在だったが、今でも一番印象に残ってるのが子どもたちの笑顔。
さらに、、、
食べるのに困っても、どんだけ生活が困窮しても笑顔は絶やさず、それさえ笑い飛ばしていくフィリピン人のパワーに、僕も力が湧き出た。
本当の強さって、こういうことなんだろう。
カッコつけるでもなく、ありのままで生きる。
それがカッコいい。

そのクールさが、強く僕を惹きつけるんだ。

やっぱ、いつも笑顔でいなきゃ。

Happyに生きよう!


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19:58  |  フィリピン  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2016'02.04 (Thu)

フィリピン共和国キリノ大統領

「憎しみを忘れなさい。憎しみにとらわれてしまうと、子どもにも憎しみが受け継がれてしまうから」

先の大戦で、BC級戦犯で死刑や無期懲役刑になった日本兵に特赦を与え、日本に帰国させたフィリピン共和国大統領エルピディオ・キリノ氏の言葉。

1945年2月3日からの1ヶ月間、フィリピンの首都マニラは日本軍とアメリカ軍の激戦地となった。この戦いで日本軍1万6555人、アメリカ軍1010人が死んだ。
そして、マニラ市民10万人以上が犠牲となった。
大戦でのフィリピン人の犠牲者は111万人にも及ぶという。
街を破壊され、愛する人や家族を奪われたフィリピンの人にとって、日本兵は憎しみの対象でしかなかった。反日感情は凄まじいものがあった。

戦時中、上院議員だったキリノ氏も妻のアリシアと3人の子どもを失った。戦闘で自宅の一部が破壊されたため、妻と子どもたちが近所にある妻の母宅に避難しようとしたところを日本兵に狙撃され、妻と長女が即死。2歳の三女は地面に投げ出され日本兵の銃剣で刺殺された。

独立後、キリノ氏はフィリピン共和国の大統領となった。
そして1953年(昭和28年)、キリノ大統領は議会や国民の猛反発を押し切り、死刑囚を終身刑に減刑し日本で服役することとし、残りを無罪にして全員を日本に送還した。
当時、大統領の決断に理解を示す人はどれだけいただろう。
ほとんどいなかった。
それでも大統領は決断した。「許す」ことを。
そしてその決断は間違っていなかった。

さらに任期が終わる2日前、キリノ大統領は日本に送還した服役中の元死刑囚全員を釈放した。
そしてその2年後の1956年2月29日、日本とフィリピンの友好を見ることなくキリノ前大統領は没した。享年65歳。

キリノ大統領は日本とフィリピンの友好的で平和な未来を想像した。
そうなることを強く願った。
そして今、日本とフィリピン両国は、大統領が想像した以上に友好な国になっている。
過去を恨み続ければ憎しみしか生まれない。
憎しみは新たな憎しみを引き起こす。
過去を許し、その連鎖を断ち切ったキリノ大統領。

今の友好的な関係があるのも大統領のお陰です。

心より感謝します。


「私は日本人戦犯に対し特赦を与えた。妻と3人のこども、さらに5人の親族を殺された者として。フィリピンと日本は、近い隣国なのだ。自分の子孫や国民たちに我々の友となり、わが国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために。許すことが出来なければ、前には進めない。」

「日本は偉大な国だった。これからも偉大な国だ。日本は大きな可能性を秘めている。わが国はまだ成長の途中にある。二つの国は地理的に近く、切り離せるものではない。協力し合うことで、わが国の力になるだろう。いつの日かまた、親友に戻れるだろう。」
 ~エルピディオ・キリノ~

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19:51  |  フィリピン  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2016'01.27 (Wed)

フィリピン

日本人障害者が海外で、年金だけで暮らしていけるのか。
それを実際に確かめたかった。
そして、1人でフィリピンに行ったのが11年前。
半年間滞在してきた。
そのとき体験した苦労や感謝は、僕を確実に強くした。
んで、先の疑問、、、
答えはイエス。
そのフィリピンを今、天皇、皇后両陛下が訪問している。

フィリピン人の底抜けな明るさとのん気さ、のどかな優しさ、バハラナ(どうにかなるさ)精神、そして、適度ないい加減さに僕はすっかり親比になってしまった。
なので、アキノ大統領自らが空港で両陛下を出迎える光景を見て思わずうれしくなった。
フィリピン国民の歓迎ぶりもうれしい。
両陛下はフィリピン人の「無名戦士の墓」と、日本人の「比島戦没者の碑」に供花し、両国の戦没者を慰霊されるという。
フィリピン国民が親日的なのも、天皇陛下の真摯な思いが伝わってのことだと思う。

どんなに憎んで恨んでも、相手の反省に対し、許す寛容さをフィリピン人は持っている。

今、こうして友好的な関係が築かれたのも、それがあったから。

心から感謝している。



20:00  |  フィリピン  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2015'10.15 (Thu)

フィリピンの英雄ラプラプ

世界周航で有名なマゼラン。
世界一周で覚えている人もいるかも。
でも、マゼラン本人は志半ばで死んでいる。
その場所はフィリピン。セブ島近くのマクタン島で。
フィリピン人に英雄は誰かと聞くと、ほとんど全ての人がホセリサールやラプラプの名前を挙げる。
ホセリサールはフィリピンのスペインからの独立の礎を築いた人物であり、ラプラプこそが、マゼランを戦闘で殺した張本人。

1519年9月20日、マゼランの船団はスペインを出帆。
1519年11月末、ブラジル沖合に到達し、そこから南下。
1520年1月9日、ラプラタ川の河口に到着。
3月末には、パタゴニアのセントジュリアン港に着岸し、そこで越冬。船長や船員の反乱にあうが首謀者を処刑したり置き去りにして出港。
10月21日、太平洋に抜ける海峡をついに発見した。
全長560kmに及ぶこの海峡がマゼラン海峡。
そして、1520年11月28日、ついに太平洋へと抜けた。そこが大西洋以上の広大な海が広がっているなど思いもせずに。
しかし、それからが地獄の日々だった。約3カ月半まともな食べ物にありつけず、ほとんど漂流に近い航海で、水は雨でなんとかしのいだものの、食料は完全に枯渇状態に陥り飢えに苦しんだ。
同行したピガフェッタの航海記によると、ビスケットは粉くずになって、虫がうじゃうじゃとわいていて、ネズミの小便の匂いがムッと鼻についたという。水は黄色く腐敗していた。帆桁に張りつけた牛の皮、オガクズ、ネズミなども食べた、とある。

1521年3月6日、マゼラン船団は奇跡的にグアム島に着岸。島の集落を襲って食料を強奪するなどし、久々に新鮮な食料にありつけた。
1521年3月16日、フィリピン諸島に到達し、4月7日にはセブ島に上陸。
マゼランはセブ島の王フマボンと住民たちをキリスト教に改宗させ、その後も布教をしながら侵略を進めていくが、マゼランの要求を拒否したのがマクタン島の領主ラプラプであった。そして、4月27日にマクタン島での戦いで、マゼランはラプラプに討ち取られた。
マゼランの死。強靭な意志と実行力で想像を絶する苦難を乗り越え、未知の大海を航海してきた勇者にしては、あまりにもあっけない。
一方、ラプラプは今日でもフィリピン民族の誇りを守った英雄と祭り上げられている。

世界史的にみればマゼランは偉人であり英雄であり、その名を知らない人はいない。
華々しい大航海時代の伝説、、、
でもそれは、ヨーロッパ人にとってだけのもの。
南北アメリカの原住民やアジア人にとって、それは侵略でしかない。
北米先住民のスー族の人の言葉。
「インディアンという名前はわれわれのものではない。道に迷ってインドに上陸したと思いこんだある間抜けな白人がくれたものだ」
同じ思いがフィリピン人にもあるのかもしれない。
だから、ラプラプはフィリピン人にとって英雄なのであろう。
そして、ラプラプが英雄ならマゼランは侵略者であり敵になる(はず)。

マゼランがフィリピンにもたらしたものがキリスト教である。
キリスト教は植民地支配にも重要な役割も果たした。
今ではフィリピン国民の9割以上がキリスト教徒だという。
ちなみに、ラプラプはイスラム教徒。

ラプラプを英雄と崇めながら、キリスト教に深く帰依するフィリピン人。
なんか、違和感というか不思議さを感じますが、、、
マゼランとキリスト教を別物と捉えているのか。
それとも、そんなに深く考えないしぃ、なんてことなのか。
でもそれがまた、いかにもフィリピン人らしいといえばフィリピン人らしいし、、、

細かいことは気にしない気にしない。

そんなフィリピンでの生活が懐かしいな。

ちなみに、フィリピンにはラプラプという名の白身で脂の乗った魚がいます。
一度食べたけど、これがまたおいしい。

でも、超高級魚で高いですよ。


19:29  |  フィリピン  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2010'11.15 (Mon)

フィリピン(Philippines)…ファイナル2

【総括2】
フィリピン日記の最終回です。。。

何もわからずに、行けばなんとかなるだろうと思って行ったフィリピン。
フィリピンに行く前は、少しでも強くなろうと気負いすぎていました。
そして、そこでの半年間におよぶ生活。
その中でわかったことは、時には力を抜くことも大事だということです。
人間、生きているだけですごいことなんです。
あまり気負いすぎないこと、物事を深く考えすぎないことも必要です。ありのままの自分でいこうじゃないですか。

そして、どんなことでも、まずは「やってみよう」という気持ちが大事だと思います。
必ず新たな発見があるし、可能性がどんどん広がっていきます。
失敗したって、かっこ悪くたっていいじゃん。
時には、突然の雨に打たれてズブ濡れになるのもいい。
そこから、いろんなことが見えてきて、わかってくるんだから。

やりもしないうちから、あれもできないこれもできないなんて言うのは、私は好きじゃない。その先にある何かを見てみたいんです。
可能性を潰してしまうなんて、めちゃくちゃもったいないと思うんだ。
トラブルは覚悟のうえだし、そのトラブルさえ自分を強く大きくしてくれるんです。
私は、まずはやってみます。どうしようか迷ったら、前へGoです!

フィリピンでの生活で体も一回り大きくなり、現地の人のように日に焼けて、見違えるほどたくましくなりました。そして、精神的にも図太くなっって、いよいよ帰国!

夜中の1時過ぎに住み慣れたGLIP((私が住んでた共同生活する所です。私は洗面所とトイレ付きの部屋を一人で使ってました)を後にし、3時半にマニラ空港に到着。
空港では、イラク戦争とサースの影響でチェックは厳しく、カバンに入れてたフォークは機内持ち込み禁止で没収されたし、サンダルまで脱がされて、ポケットに入れてたセルフカテーテル(自己導尿の管)もチェックされたっけ。チェックしたフィリピン人の20才代の女性係官はツンツンしていて態度もでかくてムカついたな。

AM6:00、飛行機へ搭乗。
やった~! もうちょいで日本だ!
飛び立った飛行機の中で、半年前に雪の秋田を後にして、青森空港から一人旅立った時のことやフィリピンでのいろんなことを思い出し、胸に熱いものが込み上げてきました。
フィリピンではいろんなことに挑戦し、思いっきり何でもやってみました。
やれるだけのことはやったので、私はフィリピンでやり残したことも思い残すことも何もありません。すがすがしさに包まれ、新たな気持ちで日本へ向かうことができました。

日本が近くなり、日本の海や山、陸地が見えてくると胸が高鳴りました。着陸直前に街並が見えてくると、もうドキドキも最高潮でした。
AM11:00、日に焼けて大きな荷物を抱え、半年振りに日本に帰ってきました。
久しぶりの日本。
「とうとう帰ってきた!これからだぞ!」と心の中で叫んだよ。
周りにいるのはもちろん日本人だけ。日本人の視線も超懐かしい。
みんなが、私に注目しているような感覚があったけな。
5月にしては異常に日焼けした車いすに乗った人間が一人でいるんだから、実際にかなり目立ってたと思う。

半年振りに日本の地を踏んだ。
フィリピンへ行く前は、仕事が無くて精神的にも参っていた。将来への展望も見いだせず、不安だらけだった。
でも、今ここにいるのは、もう以前の私ではない。
どんなことでも全てを正面から受け止めて、立ち向かっていく人間になって帰ってきた。

なぜ、精神的に参っていて体力的にも最悪、将来への展望も全く見えない状態の中でフィリピンへ行ったのか?
それは「生への願望」があったからです。
このままじゃだめだ。もっと熱く、最後まで完全に生きたいという願望がそうさせたんです。
私にとってフィリピンでの半年は、いい思い出や経験ができたなんて、そんなもんじゃないです。
最悪の状態だった自分にも、まだまだ力がある、もっとやれることがあるんだって気付かせてくれたんです。だから、ほんと一人でフィリピンへ行ってよかったって心からそう思ってるんだ。
これからも、もっともっと自分らしく生きていくよ。
まだまだ終わっちゃいない。

長い人生からみれば、半年間なんてあっという間です。
でも、長かった~
言葉も生活も文化も違う国に一人で飛び込み、見るものも接する人たちも全てが初めて。
体を張った生活で、全てが自分の力になりました。
全く見ず知らずの、それも「車いす」の外国人である私に優しく接してくれたフィリピンの人たち。生活が大変でも、明るく前向きに生きて、人のためにできることを堂々と行なう生き方。
私も、そんな生き方をして生きていきたいって強く思いました。

何はともあれ、半年間におよぶフィリピンでの生活を終えて無事に帰って来れました。
バリアフリーなんて程遠く「車いす」で生活するには思いっきり大変な環境だったけど、フィリピンの人たちの底抜けな明るさや楽観的で前向きな性格、そして何より、優しさや思いやりが私を支えてくれました。それがあったからこそ、私は初めての国で半年間も生活してこれたんだと思っています。
会えば必ず声を掛けてくれた人、坂で車いすを押してくれた人、仲良くしてくれた人たち、親切にしてくれた人たち、私は一人ひとりを生涯忘れません。

世界中の人間は、みんな温かい心を持っていると思うんだ。
フィリピンは環境的にも設備的にも車いすでは大変な所だったけど、だからこそ、人の温かさが身にしみたし、人を思いやり親切にすることは人間が生きていくうえで本当に大事な事だってわかったんだ。
人間って最高だよ!どうせ生きるなら、心が温かくなるような人生を送っていきたい。

生きていれば間違いもするし失敗もする。けど、今まで自分が生きてきたことに自信を持って生きたい。大切なのは自分を信じて生きることだと思う。
そして自信と誇りを持って生きれば、どんなことにでも挑んでいけると思うんだ。
それを自分に気付かせてくれた「フィリピン」へ、心から「ありがとう」と言いたい。
自分の人生は自分が主役。だから、今やれることを精一杯やっていくよ!

フィリピンについては一応これで終了です。
「自分らしく」生きること、そして、人の「心」。
私のフィリピンでの体験から、そのことを伝えることができれば嬉しく思います。

みなさんは、何を感じてくれましたか?
もし、心に残っている内容なんかがあれば、教えていただければ嬉しいです。

今日「11月15日」は私がフィリピンへ出発した日です。
そして、去年の11月15日からフィリピン日記のアップを始めました。それからちょうど一年後の今日、最終回を迎えることができました。
フィリピン日記のご愛読、どうもありがとうございました。

最後に、大変な時に一人でフィリピンに行かせてくれて、そして一人で家を守ってくれた妻に感謝です。どうもありがとう。

そして、誰じゃなく全ての人に感謝の気持ちを込めてサラマッポー!
Thank you so much!


20:24  |  フィリピン  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top
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