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2014'09.26 (Fri)

チンギス ハーン ~蒼き狼~

そういえば今年の夏、ビアガーデンに行った。
ジンギスカンと冷えたビールは最高だった。
ジンギスカンのラム肉から、僕はモンゴル平原とチンギス ハーンに想いを馳せた。
そして僕の中で、ジンギスカン(グループ)のジンギスカン(曲)がリピートした。



ノリノリ~

かつて、中央アジアから中東、さらにロシア、東ヨーロッパを席巻し、人類史上最大版図を誇った帝国があった。その帝国を一代で築き上げ、治めたのがチンギス ハーン。
征服された国は、すべて略奪され破壊され、人々は虐殺された。その冷酷さと残虐性で、チンギス ハーンは世界を恐怖に陥れた。

テムジン(チンギス ハーン)の父イェスゲイ。
モンゴル族(ボルジギン氏族)の首領の一人だったが、敵対するタタール族にあっけなく毒殺されてしまう。このときテムジンは9歳。イェスゲイの元にいた一族はテムジン一家を見捨てて次々と去ってしまう。
わずか9歳のテムジンに付き従うのは母と7人の兄弟だけ。幼いテムジンは、さらに父イェスゲイを暗殺したタタール族にも命を狙われた。
広大なモンゴル高原は見晴らしが良く、逃げ隠れするには適さない。というか最悪。生き抜くためにテムジンは山や川での狩猟採集生活に入った。誇り高い遊牧民族にとって、狩猟採集生活ほど屈辱的なことはない。本来なら馬を駆り、草原を疾走するのが遊牧民なのだから。
ある時、猟で鹿を仕留めたが、獲物の分配で弟たちは兄弟げんかをした。その弟2人をテムジンは殺している。食べ物の奪い合いで兄弟を殺す。泥水をすすり、生きることさえままならない貧困と絶望の中をテムジンは生き抜いた。忍耐力、実行力、決断力、冷徹さなど、やがて諸部族を統一する資質をこの時にテムジンは身につけていった。

運命を呪うほどの辛酸を舐めても、テムジンは決して自暴自棄に陥ることはなかった。目的のためには我を捨てた。積極的に他部族とも連合し軍事力の強化に努めた。
そして、徐々に力をつけていったテムジンに最大のチャンスが訪れる。モンゴル高原最強のケレイト族の首領ワン ハーンとの同盟。もし、この同盟がなかったなら、チンギス ハーンの名前もモンゴル帝国も歴史には登場しなかっただろう。
ワン ハーンとの同盟で力を得たテムジンは、その強大な軍事力で、モンゴルの有力部族を次々と撃破し、さらに、父を毒殺し自分の命まで奪おうとしたたタタール族をも滅す。しかし、一方で同盟者ワン ハーンとの亀裂が生じてしまうが、決戦の末、勝利する。
モンゴル高原の諸部族を配下に従えたテムジンは、1206年、モンゴル族のクリルタイ(大会議)にて大ハーン(王)の称号をうけ、チンギス ハーンとなった。こうして、歴史上最大版図を持つモンゴル帝国が誕生した。

1219年、チンギス ハーン率いる最強軍団が西に向け進軍する。史上最大の殺戮と破壊の始まりがそれである。モンゴル軍は抵抗した住民を虐殺し都市を徹底的に破壊した。その残虐さを知らしめることで、征服支配する国に抵抗する気さえ失わせた。
チンギス ハーンが征服し領土とした国は東西交易には重要な国ばかりで、交易路を完全に支配することで財を成し、大遊牧民国家の礎を築いた。その成功が最大の功績である。
過酷な環境で生き抜き、その大半を戦場で過ごしたチンギス ハーン。
しかし、ついに天命が尽きる。1227年、タングート王国を攻略中に没した。

殺戮と破壊により世界規模で人々を震え上がらせたチンギス ハーン。
その記憶は時空を超え、現代でも語り継がれる。

人生とモンゴルの高原を疾走した蒼き狼。

その雄姿はモンゴル人の誇りとなり、今も生き続けている。

あ~、またラム肉食いてぇ~

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20:22  |  歴史もの  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2012'01.01 (Sun)

明けましておめでとうございます

2012年、新しい年がスタートしました。
今年もいろんなことにチャレンジしたい。

さて、今年の目標だけど。。。
一応、今年こそはってのがあるんだ。
まぁ、僕のことなので、一人で何かにチャレンジ。これだけは確か。
車いすがあれば、どこへでも行けるんだ。
達成できたら報告しますね。

できたか、できなかったか、結果も大事かもしれない。
でも、目標に向かう気持ちとか努力。そういうのがもっと大事なんだと思う。
目標に向かっていけば、何かが必ず得られるはずだ。

先のことを考えることは、もちろん大事なことだけど、今を楽しむことは、もっと大事だと思う。
今しかできないことっていっぱいある。
今を思いっきり楽しんでいきます。

2012年。
今年はどんなことが起こるんだろう。
そして、どんな人に出会うんだろう。
いろんな風を感じていたい。何気ない日常のちょっとしたことに一喜一憂していきたい。
今年もアクティブにいきます。

みなさんにとっても、2012年が最高の年でありますようお祈りいたします。


20:06  |  歴史もの  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2011'11.17 (Thu)

「11月15日」という日

11月15日は今期初の雪。
8年前のこの日、俺はフィリピンに旅立った。あの時も寒かった。
雪が積もり、一面真っ白になった大館を後にしたんだ。

半年間のフィリピンでの生活。今でもいろんなことを鮮やかに思い出せる。
一人だけで行くのは初めての外国。不安だらけの出発だった。でも気力だけは十分あった。
雪が降ってかなり寒かった。おまけに中々風邪が治らなくて、出発の前日も病院で点滴した。失業中で精神的にも参ってた時だ。よくそんな状態で一人で行ったもんだ。
でも、そんな時だからこそ行ったんだと思う。大変なときこそ一歩前に進むチャンスだから。

大館から青森空港、名古屋空港、マニラ空港。
とうとう来ちまった。もう後戻りできねぇ。よっしゃ~、やるぞ!
そんな気持ちが沸々と湧いてきた。

フィリピンでの暮らしをざっと回想。
滞在してた所は結構ボロ家。そんで、ヤモリやクモ、ゴキブリ、アリが部屋の中をうろちょろしてる。俺、マジでこんなとこで暮らすの。。。
炎天下の中、毎日散歩に出歩いた。体を鍛えたかった。そして何よりも現地の人たちと接したかったから。

フィリピンに来てすぐに隣りに住むアイサと友達になった。中学校3年の女の子だ。砂利道など車いすを押してくれた。いつもまだ小さな弟の面倒をみている優しい子だった。

トライシカル(サイドーカーの付いたバイク)に乗って街に出た。思いっきり段差だらけ。「車いす」で段差を上がるのを、見ず知らずの通りかかった現地の青年に声を掛けて頼んだ。
笑顔で「オッケー」。そう言って手伝ってくれた。全く知らないフィリピンの街。知ってる人なんていない。そんなときの青年の笑顔と親切はすげぇ嬉しかった。

ある日いつものように散歩してたら、女の子のグループが話しかけてきた。話し始めたラ質問ぜめ。彼女たちはさっきまでダンスの練習をしてたと言う。そしてそのダンスを披露してくれた。それからは、会えばいつも元気に挨拶してくれたっけな。

小学校に通う片足の男の子を偶然見かけた。片足でぴょんぴょん跳ねて歩くから目立つんだ。周りの友達は彼のカバンを持ってくれていた。片足で跳ねて歩くのもサポートするのも彼らにしたら普通のこと。そんな男の子たちの自然な姿。それを見たら何とも言えない温かい気持ちになった。

高校生くらいの男の子と知り合った。名前はジュリアン。ある日学校帰りのセーラー服を着たジュリアンに声をかけられた。えっマジ、男じゃないの?フィリピンには男も女もニューハーフが身近にいる。

野菜売りの幼い女の子に会った。4~5歳くらいだ。野菜を見せてくれた手には、土というかアカがこびり付いていた。髪はボサボサ、Tシャツも短パンもボロボロ、擦り減ったサンダルの底には穴があいていた。姪っ子とさほど歳も違わない子。その子の後姿を見送りながら涙が止まらなかった。

フィリピンでは沢山の人と接したし知り合いにもなった。思いっきり力をもらった。
そして色んなこともやってみた。
イスラム教の結婚式。現地で知り合った青年と二人でバスに乗ってマニラに行った。にぎやかで暖かいクリスマス。爆竹や花火で街全体が煙りに包まれる年越し。年明け早々に風邪引いて寝込み病み上がりで行ったマニラ3泊旅行。一人でトライシカルに乗って飲みに行きビカビカのフィリピンの夜を体験。フィリピンの超暑い真夏も体験した。
詳しくはブログの「フィリピン」のカテゴリをご覧ください。

フィリピンでの半年間の生活。
体は一回り大きくなり、気持ちや精神力はそれ以上にデカくなって帰ってきた。
俺もまだまだやれるぞ。そんな希望と共に。
これもフィリピンに旅立った11月15日があったからだ。

11月15日、ドラマ「mother/マザー」の最終回放送日で見た。(秋田では再放送してたんだ)
子どもの虐待。まさに人間の闇。
人間は誰もが闇の部分を持っているのかもしれない。いつかそれが出てくるかもしれない。
でも、持ってるのは決してそれだけじゃない。
親子愛、家族の絆、思いやり…。明の部分も絶対持っている。
最終回では離れ離れで生きていかなきゃならなくなった二人。
たった一人で施設に歩いていく小さな子の後姿。
でも、その子は笑顔だった。そこには大人になったらまた必ず会えるという希望があったから。

人生には辛いことが多い。
でも、どこかに必ず希望はある。どんな辛いことでも耐えて、さらに乗り越えていける希望が。

希望…、それは生きる力だ。

11月15日は、俺にとって希望を感じる日なんだ。



19:54  |  歴史もの  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2010'05.01 (Sat)

「坂本龍馬」

大河ドラマ「龍馬伝」が話題となり、空前の龍馬ブームとなっています。
GWも、龍馬ゆかりの地が大人気になるそうです。

坂本龍馬…「幕末の志士」
幕末の志士なんて言われればかっこいい。しかし、身分は土佐藩の下級武士です。
一下級武士の龍馬が、なぜ、これほど人気があり支持されるのでしょうか。

龍馬は、下級とはいえ土佐藩の武士として、それなりに安定した暮らしがあったそうです。
それなのに全てを捨てて、捕まれば死罪という脱藩までして、広い世界に飛び出しました。
そして、幕末という激動の時代を一気に駆け抜けていきました。

龍馬が歴史の表舞台で活躍したのは、5年程度とほんのわずかの間ですが、この短い間に数々の偉業を成し遂げています。

当時、犬猿の仲で絶対に無理と言われた同盟を薩摩藩と長州藩に働きかけて実現させました。さらに、幕府から天皇への政権を委譲させた大政奉還でも大きな役割を果たします。
また、世界を相手に、亀山社中(海援隊)という貿易会社(日本で初の株式会社)を作り、列強国と渡り合いました。

私が思い浮かべる龍馬のイメージは、「和服」に「ブーツ」姿の侍。
私は、その姿で胸を張ってさっそうと歩く龍馬が目に浮かびます。
かっこいいと思いませんか。
この時代としては、珍しいというか滑稽だったはず。
それでも好んでブーツを履いていたので、履きやすさとか足を守るなど合理的な考えも持ち合わせ、そして好奇心旺盛で、周りにどう思われようと気にしない、我が道をまっすぐに行く大きな人だったのだと思います。
「何でも試してみたい」という精神が、龍馬の「思い」の基本にあり、さらに龍馬自身をを大きくしていったんだと思います。

「坂本龍馬」という一人の人間を突き動かしたものは一体何だったのでしょうか。
もう、「藩」という狭い考えじゃいけない。
「日本」を変える。日本を守るという強い「思い」があったはずです。
世界の中の日本、これからの日本のあるべき姿。
それに気付き、自分が成すべきことを見つけたから、龍馬はまっすぐに突き進めたのです。
当然、何度も失敗があったはずです。
しかし、龍馬たち幕末の志士たちは命をかけて行動しました。
だからこそ、今の日本があります。

一人の人間はちっぽけな存在だけど、強い思いと行動力が人間を大きくします。
龍馬の強い思いと行動力が、人を動かし時代を動かし、歴史を作り上げました。
龍馬の魅力は、先見性と行動力、そしてちっぽけな人間のダイナミックさだと思います。
行動も起こせずに、志しや口だけは立派な人間がいます。行動しても結果を残せない人も多くいます。
しかし、そんななか龍馬は、たった一人でも「日本人」として困難に立ち向かいました。
身分なんて関係ない。
下級武士だろうとなんだろうと、自分の信念を貫き通して生きた龍馬に、スケールの大きさを感じます。

好き勝手に自分だけがよければいいなんて人間は小さすぎます。
幕末という激動の時代を、強くまっすぐに自分の意思を通して生きた日本人がいたんです。
今を生きる私たちは、もっとやれるはずです。
私も龍馬たちと同じ日本人です。負けてられません。

自分らしく人生を生き抜き、自分らしく最期を迎えられるよう精一杯がんばらなきゃ。
夢や希望をあきらめない!
「自分らしく」生きようぜ!

龍馬は暗殺されました。
突然乱入してきた十津川郷士と名乗る男たちに斬られました。
暗殺者たちが乗り込んできたとき、龍馬は宿の者が入ってきたと思ったそうで刀を持ってませんでした。最初に額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近かったそうです。

32歳という若さで無念の死を迎えた龍馬。
まだまだやりたいこと、やるべきことがあったはずです。
今は厳しい世の中だと言っても、幕末の激動の時代からみれば幸せです。

龍馬の生き方をみてきたら、私ももっと「自分らしく」強く生きたいと思いました。
人間、これでいいってことはないです。

ますます力が湧いてきました。

生きてるって最高です。


20:02  |  歴史もの  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2009'12.05 (Sat)

「義」の心

「義」とは、打算や損得のない、人としての正しい筋道のことです。
すなわち正義!
「義」というたった一言ですが、とても重みがある言葉です。

「義」と言えば、戦国武将「上杉謙信」です。
謙信は、家臣の直江兼続(なおえかねつぐ)に『天下を取ることなどは小事に過ぎず、それよりも「義」を貫いて生きることの方が大事』と諭したと言います。

また、川中島の合戦で何度も戦った最大のライバル武田信玄が、今川氏との戦いで塩の取引を絶たれた時に、「私が貴公(信玄)と戦うのは弓矢であって、米や塩で戦っているのではない。これより先、塩が必要ならば我が国から供給しよう」と申し出ました。

「義」を重んじる謙信は、いかに敵とはいえども、窮状に陥った相手の弱みにつけ込んで攻め入るのは卑怯と考えたのです。
謙信ならではの「義」の通し方って凄まじいです。

関ヶ原の戦いの後、徳川の世になり、豊臣方だった上杉会津藩は120万石から米沢30万石に減封されてしまいました。
謙信の教えを受け大老になった兼続は、「人は組織の財産である」とし、人員削減はせずに、経済を豊かにすることによって財政改革を成し遂げ、藩を立て直しました。
人を助け、人を育て、未来を豊かにしたのです。

国家、国民のことを考えるのが上に立つ人間です。
兼続は、戦国から江戸へという時代に、苦難から逃げず、命がけで民を守り、上に立つ人間としての使命を全うしました。
凄まじいまでの「義」の精神です。私は、これがまさに「侍」の心だと思います。
同じ日本人として尊敬します。誇りに思います。

自己責任のもと、弱者を平気で切り捨ててきた改革がありました。
マスコミも、「勝ち組」だとか「負け組」だとか騒ぎたててあおりました。
なぜ、人が人を「勝った」「負けた」などと平気で笑いながら言えるのでしょうか。
人を踏み台にして、自分だけが良ければいいなんて社会は絶対におかしい。

私は、何かに負けても、人を思いやる心、正しいことをして堂々と胸を張って生きる、それこそが本当の勝者だと思います。
こんなすがすがしい生き方をしてこそ、本当の幸せを感じることができると信じます。

私は、負けるし、落ち込むし、騙されるし、裏切られることもあります。
世の中には、弱ってる人がさらに追い詰められ、自らが命を絶たなきゃいけない人もいます。

こんな世の中だからこそ、「義」の精神が必要なんだと思います。
「義」の精神で、人を助け、人を育て、未来に希望を持って生きなきゃいけません。

「謙信」や「兼続」の堂々とした生き方を思うと、私は勇気が湧いてきます。
人を思いやり、権力や利害関係などに屈することなく、正しいと信じることに迷わず突き進む。

行動で示すことは、めちゃくちゃ大変なことです。

でも、「人としての心」を失わないように、毅然と生きていきたいです!


20:39  |  歴史もの  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top
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