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2017'01.31 (Tue)

この時期 ~般若心経~

毎年この時期、決まったように体調を崩す。
んで、何かしらのアクシデントにも見舞われる。
何かヘンなのに取り憑かれてるとか。。。
琵琶法師の芳一は、般若心経のお陰であの世に連れて行かれなかった。耳は失ったけど。
ジョン・レノンやスティーブ・ジョブズなんかも般若心経に傾倒してたという。
何かがあるんだろうね、般若心経には。

ということで毎年今ごろ、般若心経を読んいる。
そしたら昨年、なんと、暗記してしまった。
気持ちや精神を落ち着かせるには般若心経いいね。
常に平常心でいれるから。
それに、、、
般若心経を唱えることができれば、何かの役に立つかもしれない。
例えば、四国八十八カ所の遍路に出たときとか。
はたまた、お坊さんの変わりに法要をするとか。ないない。
でも、般若心経を唱えて、ちょいと話しするくらいはできそう。
それで数万円。
バチ当たりめ!なんて言われそうだけど、、、
でも、これも一種の洗脳ですよ。

誰もが高いと思っている戒名代やお布施。
けど、先祖供養といわれれば納得。(渋々?)
そもそも先祖供養というのは、古代中国の殷の時代の宗教的伝統で、それがのちに儒教の中に引き継がれ、さらに仏教にも取り入れられたもの。
日本の仏教儀式も儒教化されていて、さらに神道も加わり祖先神崇拝がたっぷり入り込んでいる。
例えばお盆。
墓参りや仏壇に立てる線香。これはもともと儒教のもので、天界にいる祖先の霊が線香の煙を辿って地上界に帰ってくるためのもの。
でも、仏教の理論からすれば祖先の霊なんて存在しないはずですが、、、
だって、どこかに輪廻転生しているんだから。
今生きている僕らも前世では誰かの祖先だったかも知れないし、祖先を崇拝するなら自分をあがめよう、ということになる。そして、肉は食さず虫も殺さない。これが一番の先祖供養。
仏教が説くところでは、亡くなった人はみな仏界を目指し、最後は仏界で成就してるはず。そのためにバカ高い戒名代を払ってるしね。だから、その後も供養し続ける必要はないはず。

とは言うものの、親や先祖を想う気持ちは誰もが持っている。
習慣として命日やお盆は亡くなった人を偲ぶいい機会だが、自分次第でいつでも偲ぶことはできる。寺に行かなくても。
寺の檀家制度や既得権益に疑問を感じつつも、毎年お盆にお布施を払わせていただいています。はい。

んで、般若心経。
お釈迦様が入滅して500年後くらいして新たな仏教運動が起こった。
従来の仏教は出家した特別な人たち向けのものだったが、そのとき生まれた仏教は在家信者も悟りを得て解脱することができると説いた。出家修行者だけではなく在家の信者も悟りの世界、いわゆる彼岸(ひがん)に載せていってくれる大きな乗り物に例え大乗仏教という。
そのときに作られた仏典に般若心経もある。
大乗仏教の理論を大成した人が2世紀~3世紀の南インドの人でナーガルジュナ。漢訳で龍樹。
彼の理論は哲学的で、「依存関係による生起」というのがある。これが「空」の概念。般若心経の重要概念「色即是空、空即是色」の「空」である。

苦の原因は、諸行無常(あらゆる存在は遷り変わる)の真理に気づかず、無常である存在に執着するところにあるという。その願望が煩悩。
悟りを得たいとか、救われたいとか、そんな気持ちは全くないし、逆に願望に執着することで僕はパワーを得ている。
それでも、「無」の境地と「空」の概念は、考えるのではなく感じるものだとわかってきた。
人生が無常なら、この先どうなるかは誰にもわからない。

だから、最後は自分の直感と本能にかけたい。

穏やかに激しく、そんで自由に生きようか。

ちなみに、毎年この時期恒例の体調不良とアクシデント。

今年はまだ来てないね。


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20:04  |  思うこと  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2017'01.21 (Sat)

人生の第二章

今あきらめたら、僕は次に何をあきらめるのだろう。
ふと、そんなことを思った。
先のことはわからないけど、、、
でもきっと、先窄みの人生になるだろうね。

人生は、自分が思ってるほど長くないかも。
「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」 ~ 織田信長 ~
「人間はいつ死ぬかわからない。だから、悔いを残さぬよう今を必死に生きるぞ」。
僕なりの解釈だが、、、
戦国の世、信長は常に死を覚悟して生きていたんだろうと思う。
悔いを残さぬということに、今さらだが妙に納得。
今年は我が人生の第二章の始まりだから。
どんな結果が待ち受けているかわからない。
たとえどんなことになろうとも、結果ではなく、その過程をガッチリ楽しみたい。

そして僕は思う。
成功しようがしまいが、目標に向け全力で突き進む。
その熱い瞬間が、自分の生きてる証し。
そのために人は生きてるのだろうから。

一抹の不安もあるけど、、、

始まりは、いつも希望に満ちている。

この気持ちを感じていたい。


20:33  |  思うこと  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2016'12.24 (Sat)

聖夜

誕生日のこの日、ただ一つだけ祈りを捧げます。

夏の日の朝を胸に抱き。


20:38  |  思うこと  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2016'11.17 (Thu)

大志を持つ者は、、、

最近、何か腹が張る。
柿を食べたせいかな。。。
腹張りは、頚髄損傷の怪我で排尿排便コントロールに苦労している身としては、かなりツライ。

昔、柿を食べ過ぎて腸閉塞になったって聞いたことがある。
それが医者の診断なのかは不明だが、柿を食べたのは事実だろう。
もし、僕の腹張りの原因が柿なら、柿は控えようっと。
栄養豊富だし、おいしいから好きなんだけど。

柿と言えば、まっ先に頭に浮かぶのが石田三成。
そう、豊臣秀吉亡き後、天下分け目の「関が原の戦い」で豊臣軍(西軍)を率いて、徳川家康と戦った武将である。
当初は優勢だった西軍だが、自軍の武将の寝返り(裏切り)により敗北。
三成は捕まり、関ケ原の戦いから16日後、京都の六条河原で首を刎ねられた。
40年の生涯だった。

処刑される直前のエピソードが、いかにも三成らしくて僕は好きだ。
首を刎ねられる直前、息も絶え絶えの三成が一言いう。
「水をくれ」と。
しかし、そこには水がなかった。たまたまあったのが柿。
処刑人は、「柿ならあるぞ。これを食え!」と三成に言う。
しかし三成は、「柿はいらぬ。腹を壊すと困る!」と。
「これから首を切られるのに、体調なんて気にしてどうするんだ」と処刑人。
すると三成はこう言った。
「大志を持つ者は、最後まで体をいたわるものだ」と。

戦国武将最強といわれた上杉謙信と武田信玄。
この二人は、戦ではなく、病で命を落としている。
もし、この二人を病が襲わなければ、、、
織田信長の天下統一は確実に無かった。
歴史は大きく変わっていたはずである。
それを石田三成は確信してたのかもしれない。
だから、あの言葉を吐いたと思う。
「大志を持つ者は、最後まで体をいたわるものだ」と。

社会を変えようとか、世の中を良くしたいとか、そんな大それたことはできないし思ってもいないけど、やりたいことはまだまだある。
超個人的だけど、それは僕にとって大志。
いざ、それを実行しようとしたとき、身体がボロボロ、頭がスカスカ、体調悪っ。
そんなじゃあ実行すらできない。
ムダに長生きしたいとは思わないけど、個人的大志だけは必ず実行したい。
面倒な病気になるのは御免だ。
それが運命なら受け入れるしかないが、体調管理で避けられるのなら努力は惜しまない。

人生が終わろうとしているその瞬間まで、
「大志を持つ者は、最後まで体をいたわるものだ」と言う三成。
そのブレない芯の強さ、ストイックさに感銘。
僕もまだまだ目指すこと(大志)がある。

万全の体調で挑みたい。

あっ、そういえば、今日の朝、何気に柿食ったぞ。

まっ、柿は栄養豊富だから。


19:12  |  思うこと  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2016'11.01 (Tue)

「がんばれ!」という言葉

先日、市内の某ショッピングセンターで、見ず知らずのお婆さんに突然励まされた。
「がんばって!」と。
その瞬間、僕に言っているとは思わなかった。
でも、周りには誰もいない。やっば、僕にだ。
「はい、ありがとうございます」と言って、手を振って別れた。
何か、こういうのって良くないですか。
人の温かさや人情を感じることができて。

障害者の情報番組や雑誌なんかで、よく「がんばれ!」と言われるけど、何を頑張ればいいのか、今でも頑張ってるのにこれ以上何を頑張れというのか、と「がんばれ!」と言われたことにイヤな思いをしたと言う人がいる。
自分のことを何も知らないくせにとか、見ず知らずの人に言われたくないとか、自分は十分に頑張ってんだとか、俺のことはほっといてくれとか、こっちをジロジロ見るなとか、イヤな理由はいろいろあるんだろけど、なんかそれって、心が狭いというか気持ちが小っちゃくないっすか。

別に頑張ってないからとか、頑張りが足りないからとか、そういう意味でもっと頑張れ!と言ってるんじゃない。
少なくても、悪意を持って言ってるわけじゃないのは、言われた本人も分かってるはず。
むしろ善意なのだから、あたたかい励ましの言葉として素直に受け取りたいね。
僕は逆に、感謝したいくらい。

人に頑張れと言えば、悪いかなとか、悪意に取られたらどうしようとか、そんなことは考えずに言いたいし、言われたい。
「がんばれ!」、と。
この言葉、僕は好きだな。

今日の朝、職場の玄関で視線を感じた。
そして、見ず知らずのお婆さんに、「大丈夫ですか?」と声をかけられた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」僕。
こういうのも良くないですか?
やさしい気持ちに接し、朝から心がほっこりしたよ。
人を思うやさしさやおもいやり。
そんな余裕を、常に持っていたいね。
見ず知らずの人が、わざわざ声をかけてくれたことに感謝。

それにしても、何か僕はよく声をかけられる気がするけど、、、
車いすのこぎ方とか、よっぽど大変そうに見えるのかな。

それとも、声をかけやすい顔してるとか。

どんな顔や。


20:11  |  思うこと  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  ↑Top
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